―――俺が俺らしくあるために。


イデオロギー


「…ぐっ」
口内に鉄の臭いが広がる。
ラケットを持たないままコートに立ち続け、強烈なサーブを何度も体に受け続けた。
宍戸はひたすらその痛みに耐えていた。

「宍戸さん…もうやめましょうよ！」
心配そうな鳳の声を振り払うように叫んだ。
「うるせえ…続けろよッ」
不安を隠し切れない鳳をきっと見据える。

まだだ。
まだ、モノに出来ない。

鳳のサーブを見極めていないのだから、まだ引くわけにはいかない。
ここでテニスをするには、自分のテニスを作り上げていかなければならない。
「テニスがしたい」その想いだけが宍戸を突き動かせていた。
新しい傷から血が滲み出し、サーブを受けた肌にはアザが浮かび上がる。
視線はひたすらボールを追い続けた。

まだ。
まだ、完成しない。

感覚が麻痺してしまったのか、ボールが当たってもさほど痛みを感じなかった。
「…っあ」
酷使し続けていた体がふらりと地面に吸い寄せられていく。
ドサリと派手な音をたてて崩れ落ちた。
「宍戸さんッ！？」
遠くで声がして、足音が向かってくる。
「早く…続けろよ…」
言葉とは反対に宍戸は意識を手放した。



鳳長太郎、宍戸よりひとつ年下の後輩。
でも宍戸より背が高く、テニスの実力も上。
自分を慕ってくれる後輩は可愛いと思うし、嬉しかった。
でもそれと同時に、鳳の生まれもった才能を妬ましくも感じていた。
屈託なく笑いかける後輩は、この気持ちを知ってるのだろうか？



「…し…さんッ、宍戸さんッ」
聞きなれた声がして宍戸の意識がゆっくりと覚醒した。
「あ…？」
間の抜けた返事をすると、鳳はホッとしたように吐息を漏らした。

「気がついてよかったです。宍戸さん倒れたから俺、心配で…」
目の前には鳳がいて、その後ろには黒い空が見えた。

ああ、俺って激ダサだな。

自虐の言葉が浮かんでくる。
プライドが、宍戸を強がらせた。
「俺は平気だ。長太郎、続けろ」
そう言い終わる前に、幸か不幸か黒い空から大粒の雨が落ちてきた。
ぽつりぽつりと落ちてくる粒が次第に増えていく。
雨特有の匂いがした。

「雨降ってきましたよ…やめましょう」
宍戸の体力も限界を超えていたし、さすがに鳳を雨の中付き合わせるわけにもいかないので素直に従った。
宍戸は戻るために歩き出す、熱を帯びた体に冷たい雨が心地良い。
雨に名残惜しさを感じながらも部室へ戻った。



暗い部室にあかりが灯る。
当然のことながら他の部員達はもう帰宅した。
宍戸は正レギュラーから外れたその日から、部活の後練習をしていた。
最初はひとりだったけれど、いつの間にか鳳が練習に付き合うようになっていた。
そして現在に至る。

そういえば、どうして鳳は練習に付き合ってくれるのだろうか？
宍戸は近くにあった椅子に腰を下ろすと、ぼんやりと疑問が過ぎった。
部活のキツイ練習の後にまた練習。
しかも、鳳自身にはプラスにならないのに。
…どうして？
ぽたりと長い髪から雫が落ちる。

「宍戸さん風邪引きますよ」
鳳の声に引き戻されると、タオルを差し出された。
汗と雨のせいで、水滴が肌を滑り落ちていく。
湿ったシャツが重い。
「ああ、ありがと」
礼を言うと、シャツを脱ぎ、体を拭き始めた。
鳳は、慌てて目をそらす。

「んだよ、長太郎。どうしたんだよ？」
「あ…着替えてるから…」
「そりゃそーだろ。つーか、男同士なんだから気にすんなよ」
「ははっ、まぁ…そうなんですけど…色々と…」
言葉を濁しながら鳳は背を向けた。

…ヘンな奴だな。

部室に再び沈黙が訪れた。
体を拭きながら宍戸はもうひとつ疑問に気付いた。

どうしておれは長太郎と練習しているのだろう？

誰にもこんな姿を見られたくなかったのに。
確かに長太郎から付き合うって言い出したけれど、俺だって断ることができたはずだ。
なのに、断らなかった。…何故だろう？

相手が、長太郎、だった、から？

宍戸の顔がカアッと赤くなっていく。
長太郎になら、全てを見せられる？
混乱でクラクラする頭を抑え、大きくため息をした。



「…激ダサだよな」
「宍戸さん？」
目を丸くした鳳が振り返る。
「なんでもねぇよ」
吐き捨てるように言うと宍戸は立ちあがる。



「絶対、レギュラー勝ち取って見せるからな」
にっと笑って見せると鳳も笑みを浮かべる。
「はいっ！宍戸さんなら出来ますよ」
ここで立ち止まる訳にはいかない。
自分のためにも、鳳のためにも。

宍戸と鳳がダブルスで組むことが決まったのは数日後のことだった。
そして今、二人は同じコートに立っていた。

「青学とか関係ねえ、俺らのテニスをやろうぜ」
「よろしくお願いします。宍戸さん」
「ああ、よろしくな。長太郎」



俺の存在を証明する時が始まる。―――





2002.7.24